4月4日のFTの記事からです。
Animals Hunting trophy ban shows our epicurean hypocrisy
Stephen Bush
(要約)
イギリスの政治家らが、アフリカの動物狩猟トロフィーの輸入禁止法案を可決しようとしている。しかし、野生動物保護団体は、トロフィー狩猟によって資金を得て保護を行っているため、この法案が野生動物の保護に役立つかどうかについて疑問を呈している。一方、イギリス国内において、狩猟は上流階級の娯楽とされており、人々は動物福祉に配慮する一方で、肉を食べることには違和感を感じない矛盾があると指摘される。このように、人々が動物を殺すことに対する判断基準には不明瞭な部分があり、慣習や文化、階級意識などが反映されていると言えよう。
ポピュリズムの定義として最も適切なのは、世論調査の結果が良いからという理由で、本当は存在しないと思っている問題を解決するために、うまくいかないとわかっている法律を通すことだと思う。〜〜〜
〜〜〜私たちの直感は、半分正解だと思います。どんなに必要な命であっても、その命を奪う行為を楽しむことは、少し不吉なことなのではないか。しかし、イギリスの国会議員たちは、自分たちが不快に思う行為に対して、自分たちから遠く離れた国々に負担を強いるような方法で、性急に反対を表明している。
来たなあ。
ここは笹渕さんの出番でしょ。
笹渕さん曰く
この記事を読んで真っ先に頭に思い描くのは、(細かい定義は横において)『穢多』(変換できない。酷い言葉狩り、言論統制ですね)ではないでしょうか。
穢多について文字数を稼ぐのは割愛しますが、『人』は、趣味・嗜好を享受しているにも関わらず、その裏(過程)には思いもよらない作業や犠牲が伴っていることに気が付かない、或いは(わざと)目を背けてしまう(見て見ぬ振りをする)、もっと言えば、逆にその業種の人達やその様な文化を持つ人達を蔑むという傾向にあります。
記事中にもありますが、日本人を含む多くの人間は牛肉や豚肉、鶏肉等を好んで食べます。
しかしその過程では、当然、『家畜』として育てられた動物が『屠殺』(変換できない。酷いk(略))されています。
牛などは、その屠殺場に連れて行かれる時には涙を流している、と聞いたことがあります(真偽不明)。
しかし、その様な話を聞いて心が痛み、死に対する未知の情感を抱いても、その数時間後には何らかの『生命』を口に運んでいます。動物愛護、自然保護、菜食主義、ビーガンなど、自分自身の拠って立つところに従って生活するのは自由だと思いますが、それを他人に対して強要する、主義主張を押し付ける、というのは、何十年前から続く共産sh(ゲフンゲフン。。。。
我々人間は、何らかの生命を食していかなければ生きてはいけない。
我々人間は、食物連鎖の中のひとつのカテゴリーに過ぎない。
我々人間は、生きているだけで環境を破壊している。
我々人間だけではなく、生物は何らかの要因で環境に影響を与えている(破壊している)。
我々生物は、それを含めて『環境』の一員である。
という現実を認識しながら、肩肘張らず、他人に迷惑をかけず、文化、文明、技術、教養、道徳、思想などを洗練させ、そして現在の環境を有難く享受しながら出来る限り維持し、急激な変化を起こすことなく、生命活動を後世まで繋げていく。そして今こそ、日本人が文化として紡いでいる
『いただきます』の精神を、世界に広める必要があるのではないでしょうか。
お二人方、私も同意見です!!
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