天皇誕生日
仕事が終わって一休み。
リビングでいつもの様に晩酌をしながら本を読んでヘラヘラしていたら父が突然。
父 「おう、昔、こんな事があってな。」
僕 「ん?なんですか?」
父 「日本のロイヤルの批判についてだなのだが。」
僕 「ひ、扱いにくい問題ですね。
今日は家族だけだからいいけど。
父上、時々、人様の前でも誤解を招いてしまう物
言いをしてしまわれますよね。
ご自身『失言居士』と自覚があられる様ですが、
何故か僕はそこだけ色濃くDNAを引きづいてしま
い、物心ついた頃から『二足歩行の放送禁止郎』
と呼ばれております。」
父「俺が官房長官の頃、許せぬ皇室批判をした雑誌が
あってな。」
僕 「今も昔もある様な?」
父 「それがBというものなのだ」
僕 「ぬ?あの雑誌が。。。
あの雑誌は僕が若かりし頃はなかなかの論文集
で毎月骨が折れました。
いつからか、一般で言う『ふにゃふにゃ』にな
りましたねえ。」
父 「あれの過去の編集長がロイヤルのFemale批判を
しおってな。」
僕 「あ!ロイヤルの制度的な問題とかではなく、反
論出来ない方々にすると言う卑怯者しかしない
そちらの話ですか!」
父 「おう、それがH田という奴なのだ。」
僕 「はあ、直近まで『誤解を恐れず言うと』ステレ
オタイプな蓑田胸喜になるかもと言われていた
方ですね。」
[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E7%94%B0%E8%83%B8%E5%96%9C]
熊本県出身の蓑田は、東京帝国大学で宗教学者の姉崎正治に師事。慶應義塾大学教授時代には論理学や心理学を講義し、国粋主義の観点からマルクス主義・自由主義的な学者・知識人批判を展開。慶大退職後は国士舘専門学校教授。天皇機関説事件に始まる大学粛正運動の理論的指導者であり、津田左右吉の古代史著作発禁事件も、蓑田の批判論文がきっかけ。晩年、国士舘専門学校を退職し、疎開先で自殺。墓所は熊本県八代郡氷川町の阿弥陀寺。
1944年(昭和19年)6月、郷里の吉野村に疎開し、終戦後に自宅で首を吊って自殺した。これには、発狂による自殺とする説もある。当時岩波書店社長であった岩波茂雄は、蓑田の死に際して遺族に金一封を送り、「それでは蓑田は本物であったか」という感想をもらしたというエピソードがある
父 「うむ、あれがそれをしおってな。」
僕 「ありゃあ、イメージと全然違った。」
父 「それで俺怒って、お前ら反論をしたくても出来
ない方々にそういうことをするなら俺もそれに
にふさわしい態度するしかないと言ったのだの
だ。」
僕 「当たり前ですね。それでは単なる弱いものいじ
めです。」
父 「そうしたら、なんか政治団体みたいなのが鉛の
弾をその雑誌の会社に打ち込みおった、、。」
僕 「あああああ、、、、、」
父 「なんか、俺、怖い奴と噂が立ってな。
マジで関係無いのだが。」
僕 「いつも父上、間が悪いことが起きますねえ。」
その後、父上は僕のカミさんが作ってくれた晩御飯を楽しみながら、ねこのにゃすーを見て目を細めていらっしゃいました。
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