写真は本田宗一郎氏、良い顔してまんな。
日本発のモノづくりに出資するVCの代表お二人にお会いして来ました。
なんつーか、掲げておられる理念とパッションが父と非常に似ていました。
開口一番。
「まず、日本初のテクノロジーで、世界に打って出られるものをここまで頑張ってくれて感
謝します。」
うおん!?
色々省きますが、お二人の熱い思いはこのような感じです。
「日本のPEファンドのノウハウでは投資家が儲けさせれない。
一億総サラリーマンになってしまっていて、このままでは日本が駄目になるという危惧
を持っている。
ファンドの運用手法が役人以上に役人的。
選択と集中の悪い面が日本のテクノロジーに負の影響を与えた。(主に、
ディープテックの話です。)
日本にテクノロジーを育てるファンドは無い。
よって我々は立ち上がった!」
ぬーん、来ましたな。
日本にまだこのような人材がいらっしゃったとは。。。。。
みんな、外に飛び出しちゃったかと思っていたよ。。。。。
その、VCには僕たちの会社に対してご出資頂きました。
僕たちの会社
ここからは幼少の頃から父に聞かされてきた日本のベンチャー精神誕生の物語です。
父が通産省の役人だった時のお話です。
父と父のお友達方とで、これからの日本の為に何をすべきかをヤンやヤンやと議論しており
ました。
「やはり、新進気鋭の人々が新しく自分達の城を作りながらテクノロジーを持って世界と
日本の雇用と財政に貢献できるようにしたい!!(フィンテック・ディープテック問わず。)」
そこでアメリカではアントレプレナーと当時言われていた言葉を、新たに造語にしようとなりました。
父達が『アドベンチャー企業でどうか?』となった時に、まったが入りました。
後にダイヤモンド社の社長になられたSさんです。
S氏 「アドベンチャーでは余りに危うい感じがする、アをとって『ベンチャー』。
ベンチャー精神・ベンチャー企業にしよう!」
そのまま決まりました。
その後、当時の通産省・中小企業庁で日本ベンチャー・ビジネス協会の設立にあたって、そのTOPに白羽の矢が立ったのが、かの本田宗一郎氏です。
同郷ということもあって父が説得に行きました。
本田宗一郎氏は先ず父の話を聞いて
「その意気や良し!」
となってくれましたが、父の所属している組織の名を聞いて仰ったそうです。
「何!?通産省!俺が一番嫌いな所じゃないか!!」
何があったんでしょうか?
何かあったんでしょうね。
それでも本田宗一郎氏は話を引き受けてくれたそうです。
その後、80年代に入り今では投資の神様と言われるジョージ・ソロスが日本の企業に投資、若しくは買収をしたいとその眼・耳となる人を日本に送りました。
名はジム・ロジャーズ。
ジム・ロジャーズは夜も明かりがついていて活気があるビルを見て、「ここが買いだ!!」と思ったそうです。
霞ヶ関の通産省でした。
先のSさんから聞いた話です。
かしこ。