熊谷弘さんの心の友。
親友兼悪友。
朝一番で世相を語り合い、夜寝る直前も世相を語り合う。
話す精神安定剤。
河端照孝先生。
今日、初めて河端先生に私から切り込んで聞いてみました。
熊谷弘とのなりそめです。
私 「河端先生、父・熊谷弘との馴れ初めはどの様
な形だったのでしょうか?
父は、初めて会った時は河端先生は仰ぎ見る
ような大物であったのだ。
としか教えてくれません。」
私 「河端先生、父・熊谷弘との馴れ初めはどの様な形だったのでしょうか?
父は、初めて会った時は河端先生は仰ぎ見るような大物であったのだ。
としか教えてくれません。」
正直、まだ若輩の私から聞くのは時期が早いか?と遠慮もしていたのですが、
先生は軽く頷かれあっさりお話をして下さいました。
先生「初めて会ったのは、くまちゃんがまだ通産省
の情報処理振興課の課長補佐の時で、俺が
通産省の記者クラブの番付きになった時だか
らそう言うのであろう。
昔、通産省に高島ってのがいてな。
本来なら事務次官にでもなれる男ではあった
が、特許庁長官で終わった方だ。
それも課長補佐だった時に一個下の後輩に
熊谷弘という面白いのがいるから会ってみな
いか?と誘われてからの仲だ。
その後情報処理の振興(ITの振興)の為に、
SONYの盛田さんを口説いて銀座のSONY
ビルの8Fを借り切って『コンピューター
アート展』をしたんだ。
くまちゃんが通産省に用意させた予算は昭和
40年代当時で50万円。
それは業界誌等の広告宣伝費ですぐに使って
しまった。
盛田さんにSONYビルを借りてもらったりし
て乗り切ったよ。」
先生「初めて会ったのは、くまちゃんがまだ通産省の情報処理振興課の課長補佐の時で
俺が通産省の記者クラブの番付きになった時だからそう言うのだろう。
昔、通産省に高島ってのがいてな。本来なら事務次官にもなれる男ではあったが、
特許庁長官で終わった方だ。
それも課長補佐だった時に一個下の後輩に熊谷弘という面白いのがいるから
会ってみないか?と誘われてからの仲だ。
その後、情報処理の振興(ITの振興)の為にSONYの盛田さんを口説いて銀座の
SONYビルの8Fを借り切って『コンピューターアート展』をしたんだ。
くまちゃんが通産省に用意させた予算は昭和40年代の当時で50万円。
それは業界誌等の広告宣伝費で直ぐに使ってしまった。
盛田さんにSONYビルを貸してもらったりして乗り切ったよ。」
私 「一体、どの様な展示をされたのですか?」
先生「昭和40年代の当時だよ。
情報をインプットして占いしたり、
自動じゃんけんゲームだったりさ。
じゃんけんゲームなんて勝てやしない。
人間が先にじゃんけんの手を入力してから
コンピューターが手を出すんだw」
先生「昭和40年代の当時だよ。
情報をインプットして占いしたり、自動じゃんけんゲームだったりさ。
じゃんけんゲームなんて勝てやしない。コン ピューターの後出しだからな。
人間が先にじゃんけんの手を入力してからコン ピューターが手を出すんだw」
私 「w。それでもその当時では凄いです。」
先生「SONYの盛田さんも『あのコンピューター
アート展はいいね。』と言ってくれ、
野村の社長の植村さんとも後に仕事が
出来るようになった。
俺もクマちゃんも、それで互いに評価され
もっと仲良くなったよ。」
先生「SONYの盛田さんも『あのコンピューターアート展はいいね。』と言ってくれ、
野村の社長の 上村さんとも後に仕事が出来る様になった。
俺もくまちゃんも、それで互いに評価されもっと仲良くなったよ。」
次回へ続く。
乞うご期待!!
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